承認欲求おばけと依存性
※この文章には性的でやや過激な内容が含まれております。敏感な方はご注意ください。
自分はよく○○おばけ、という表現を使います。よく使うのは承認欲求おばけというワードですが何でも応用が効くのでとっても便利です。ここ最近使いはじめてお気に入りになっております。
プロフィールにも8/7現在書き足したワードなのでちょっと承認欲求おばけとは、という話でも置いておこうかな…と思います
私は学生時代、いじめ等いろいろ面倒な経歴を経た結果「人に認められたい」と強く思うようになりました
認められたくて認められたくていろんな事をしましたが、それの最終地点が身体を売ることでした(良い子は真似しないでね)
得体の知れない男に抱かれている間は、その男に認められていると勘違いする。
そして自分よりも歳を重ねた男が自分の身体で快楽に落ちているという愉悦、支配感。
認められ、掌で転がしていると錯覚する。
そういう時代を何年か過ごしました。
まぁそんな風に歪んだ形で満たした承認欲求は歪んだものなので、「身体は愛して貰えても私を好いている訳ではない」と結局また自己嫌悪して、承認してくれる誰かを探し続けるというミラクル悪循環でした。
馬鹿ではありますが、当時の私はそうでもしないと救われなかったのだろうと思います。反省はするし後悔はすれど、これも一種の経験だったのだと思っています。
そしてとあるきっかけで身体を売ることを辞めざるを得なくなり、そのきっかけで私は心身共に崩壊していくこととなりました。
直接的に身売りが関係していた訳ではないにしろ、そういう思考回路や生き方をしていたからこそぶち当たった問題だったので、結局私を滅ぼしたのは承認欲求だった、というまぁくだらなくて悲しい結末です
今では心身共に崩壊していた頃から回復し、普通に働いて普通に遊んで普通に笑っています。
ですが。
身体は、頭は、心は、しっかりとあの感覚を覚えているんです。
テレビなんかで麻薬を辞めたけど依存性が抜けなくて困るとか、タバコを辞めたけどふとした時吸いたくなって一度吸うとまた癖になるとか聞いたことあるかと思います
あれと同じ感覚なのかな、と
あのときの私にとって、それは快楽だった。
効果が切れれば死ぬほど自己嫌悪と絶望という反動に苦しむことは分かっているのだけれど、麻薬のように快楽を求め、あの瞬間をまた欲する。
誰かに認められたい。誰かに認められたい。
ふと、あの頃を思い出すことがあります。
愚かでどうしようもなくて、それでも足りない頭で救いを求めていたあの頃に戻りたいと思うことはありません。
だけど、もし仮にまた自分がどこかでつまずいた時。どこかでダメになった時。もしかしたら私はまた一時の快楽の為に「あの頃」を取り戻そうとしてしまうかもしれない。身を滅ぼすのだとしても、そこに救いを求めてしまうかもしれない。
本当に馬鹿だと思います。
だけど絶対にしない、なんて言える自信はありません。
踏み外さないように、いつだって私は制御に必死なのかもしれません。
承認欲求おばけというワードは、「承認欲求」という重くてどろどろとしたワードを少しだけ軽くポップにしてくれます。
こうやって明るく振る舞えるうちは、私はそのおばけに取り憑かれていない証拠なのだと思っています。
きっと取り憑かれてしまったら、そんな余裕はなくなります。
だけど人は皆、承認欲求を少なからず持っているんだと最近なんとなく思うようになりました。皆が持っている気持ちなのだから、蔑ろにしてしまうのは勿体ないし、それこそ違和感がある気がするんです。
悪いものばかりではない。認められたいからこそ努力する事や人だって居るはずなんですから。
そういう気持ちを悪者にしてしまわない為のポップな言い回し…なのかもしれません。
そうして今日も、私は承認欲求おばけと仲良くやっていくのでした。
おしまい。