「読みやすいブログ」
何かを発信したいなら
何かを伝えたいのなら
読みやすいブログを作らなくてはならない
と、とある方のブログを拝見していて思いました。要点が明確化されていて、それでいて詳細が飲み込みやすい。拒絶感の出にくい文章は文字を追いやすく読みやすい。
ああいうブログが他者に求められるのだなぁとふと思いました
ところが私はどうか、と。
読みにくいこんなブログに読者層は価値を抱くのか?
みたいな下らないことを考えそうになって止めました
(私にとっては下らないですが広く受けるブログを作るなら必須だと思います)
そもそもこのブログって発信したいから書いてるもんじゃねーだろ、と。
思ったことぶん投げて置くための場所なのであまり他者からの体裁とか気にしなくていいという根本を忘れそうになりました(それくらい呑み込みやすいブログでした)
例えば誰かに見てもらう為に作るなら、それこそ体裁を意識しないといけませんがそんなもんは知りません。彼氏はこのブログをきっちり読んでるらしいですがだからといって彼に気を使う内容にするつもりもありません。そもそも当事者が関わる話は本人にします。
誰が見ようが構いません。知りません。これが私のブログだ。
…なんかほぼ日記か何かみたいなもんですねこれ多分
別にいいけど
他者からの評価を気にしすぎてしまうと、人気者に嫉妬する未来や才能のなさに絶望する未来しか見えないので、ここでは好き勝手やると決めています。
何なら最近Twitterよりこっちの方が思考回路書きやすい。長文書けるって有難い。Twitterの140文字も好きですけどね
こうやって書き溜めた言葉は、想いは、届く人にだけ届いていればいい。
私にだけ届いていればそれでいい。
この先もそういうスタンスでやっていくと思います。
人の前に立つ
皆さんは学生時代、どんなアルバイトをしたでしょうか。
はたまた社会人になって、どんな仕事をされているでしょうか。
自分はアルバイトや社会人経験の中で人と接する仕事だけをずっとやってきました。
高校時代のドラッグストアのアルバイトに始まり、夜の仕事、ゲームセンターの店員、イベントスタッフ。社会人になってからは食品関係の販売員をやって、今も別ジャンルの販売員をやっています。
仕事は近々辞めますが、それでも多分また人に関わる仕事をするんじゃないかな、となんとなーく感じています。
そんな接客オンリーの仕事の中で自分の最近の武器は「営業スマイル」でした。
良くも悪くも作り笑いがとても綺麗、と。
実は、というかこんなブログをちまちまやってるところから想像できる通り、元々ネガティブで人付き合いが苦手な上に目付きが怖いことも自覚していたのですが…高校生の頃、学生でも出来るバイトとなると職種が限られることもあり、ドラッグストアのレジ打ちのバイトを始めたのです(田舎なのに時給もそこそこ良かった)
「見た目は真面目、中身はサボり魔テキトー女」だった私は持ち前の見た目の良さ(ここで言う良さは可愛いとかではなく真面目そうという方向)でアルバイト先でも評判のレジスタッフでした。
2年半程勤めてましたが辞める頃には夜スタッフの中で1、2を争う「良い人、ベテラン」になってました。笑える。
社会人になっても割りとそれは変わらず、「まきゅちゃんは真面目だから、不器用だけどちゃんとやってくれて有難いよ~」と半分disりながら褒めて頂くことの多い人間でした。今の仕事場でも割りと重宝して貰ってます新人としては。
んで、そんなにべらべら喋って何が言いたいのかというと
接客の仕事って笑顔が無いとダメなんですよ。
「そんなの当たり前じゃん?」と思うかもしれませんが、接客を極めなければならない職場に居る人間からするとそうでないことも多いなぁと時々感じます。特に多分学生バイトさんかな。
まぁそりゃ常に笑顔でいろ~とは言いません。そんなん無理です無理。でもその接客、ちゃんと接客してますか?って思うこともあるんです。こんな若輩が思うのだからご年配の方なんかは尚更じゃないでしょうか。
時々、「お客様の声」みたいなもので店員の笑顔や愛想がないなんて声を見ます(現場でもTwitterなんかでも)
若いサイドからすれば、サービスはきちっと提供してるのに笑顔がない位でいちいちどうしてそこまで言われなきゃならんの?みたいな人もいるんじゃないかな
でもそれって多分接客の中身なんですよ。満面の笑みとまでは行かなくても、接客をされているという事実に届いてない。(言いたいことが上手く言えないのが申し訳ないけど)
理不尽な要求(メニューに無いもの出せとか呼ばなくても水は入れに来いとか)を受け入れる必要はないんですけど、多分今接客をしている貴方が少し顔を上げて、軽く笑いながら会釈するだけで、多分その印象ってガラッと変わるんですよ。これは保証する。
笑えない状況で笑えとは言いませんが、人に接するポジションを選んだ以上「笑顔」という「接客」が絶対必要ではないにしても、あるだけでお店や個人のイメージをガラリと変えるのだと、ここ最近酷く思います。
自分がめちゃくちゃ丁寧な接客(百貨店風)をしてるので、時々飲食店とかに入るとふと思ったことです。
飲食店でスマイルを求めるな、なんて言われるかもしれませんが、求めるというよりはあったらきっとここはもっと素敵なお店になるのになぁというだけです。
ちなみに私は基本的に態度が酷く悪いお店には二度と行かないようにしています。
そういう風に選ぶ人もいるってことを覚えて置いて下さい、という話でした。
(こればっかりは今の仕事してなかったら気づけなかったなぁ。)
やりたいのか憧れなのか
今日は仕事が休みです
お休みだとだいたいはだらだらとした時間を過ごしますが、私はそれを無意味だとか勿体ないと思うことはほとんどありません。どっちかと言うとゆっくり出来てラッキー、くらいかな。休息大事。
先日から、仕事終わりの夜や休みの日にちまちまといろんなことをやっております。
主なものは絵を描くことか、ミサンガを編むことか、占いをする(勉強する)こと。
方向性が支離滅裂ですが、どれもやってみたいなと思ってやってきたことだというのは結構私の中ではレアケースだったりします。
以前、私の原動力が嫉妬とか真っ黒な気持ち、みたいな話は確かしたような気がしますが…今この3つの趣味にはあまりそんな気持ちが混ざっていません。とってもレア。
動きだしこそ嫉妬や憧れではありましたが、現時点でその気持ちがないことはある意味「やってて楽しい」「そんなもん関係なくやりたい」ことになってきているような気がします。あんまり今までそういうこと無かったので自分でも少し驚き
昔は
嫉妬に狂い、憧れ、その為に手を動かしていました。
それはそれはとても苦しくて(今もない訳じゃないですが)、器用貧乏のおかげで「そこ」に 簡単には 辿り着けないということをずっと痛感するだけのものでした。
貴方に憧れてこれを始めました!なんて聞こえは良いのかもしれませんが、私にとっては妬み嫉み憧れ苦しみ絶望。(だからダメとは思ってないですけど)
ただ、でもやっぱり「上」には行けないのかもな、と時々思います。
言うなればそれで生計を立てる…までは行かずとも、自分の利益を作れるかというと恐らく。
それでも、私はやりたいことをやりたいようにやる。もしかしたらそれはやりたいことではなくただの苦しい憧れと嫉妬なのかもしれませんが、そんなもん考えたって無駄です
手足が動くなら。
今私はどんな形でも何かを成そうとしているなら。
その欲望のような、そうでないような気持ちは蔑ろにしたくないな、とふと思ったりします。
とりあえずちょっと流石にこの夏は暑すぎるので
ゆっくり冷たい飲み物を飲んでから今日の予定を考えようかな。
なんて。(笑)
自己否定と完璧主義
仕事の休憩時間なので短めの話を。
よく私は完璧主義だとかきっちりしてるとかそういう風によく言われるのですが、実は本人にとってはそうではない、という話です。
完璧にやらないと気が済まないんでしょ?と言われたのですが、実際はこれくらいやらないと何も出来ない自分はダメ、が正解です。
根っからのダメ人間を自覚してからダメならダメなりに良いものを目指していた結果、他人から見た私は完璧主義に見えていた、というのはちょっと面白い話だと思いました
(まぁ実際プライド高いのでなるべく完璧にしたいという見栄っ張りもあると思いますが)
完璧にしないと気が済まないのではなく
ダメな自分はこうでもしないと出来ない。
良く聞く言葉を借りるなら 認知が歪んでいる のかもしれないですが、自分にとってはそれが当たり前なので首をひねるだけでした。
完璧主義?これだけ抜けているのに?と思った位ですが完璧主義がどうかと抜けてるかどうかは別物だな、と今文章を作っていて思いました(突然降って湧くやつ)
抜けている自覚があるのでそれをカバーしようと必死なんだと思います。思いますって仮定形なのは完璧主義の自覚がないからです(微塵もない)
話はぶっ飛びますが
私は現在夏バテ真っ盛りの為にイライラとやる気倦怠と戦っております
そんな自分を許せなかったり、病院に行こうかという考えを振り払ってしまうのも、ある種の完璧主義、「なるべく完璧になりたい、ありたい」私なのかもしれません。
夏バテしてますが仕事は変わらずやってくるのでそろそろ戻ろうと思います。
嫉妬するにはするけれど
どうも。
他人の才能に嫉妬するのが得意なわたしです。
世の中には手の届く所にいる凄い人と、かろうじて目視できる所にいる凄い人がいると思っています。
かろうじて目視、っていうのは例えばイケメン俳優さんとかスーパーセレブタレントさんとか大御所お笑い芸人さんとか。雲の上の人。
一方で手が届くといえば、分かりやすいのはYouTuberさんや読者モデルさん、あとはTwitterで時々流れてくるような絵を描く方とか。
(この辺の定義には個人差があると思いますが)
私は嫉妬するのが得意です。
手の届く凄い人はもちろん、雲の上の人ですら妬ましく感じてしまうようなこともあります。
元々私は俗にいう器用貧乏でした。なんでもそつなくこなせる代わりに、大抵のことはそれなりにしかしない、出来ない。(ここでのしないと出来ないはほぼ同義です)
何でも80~90点は取れるので、大抵の人からは羨ましいと言われます。故に最初はわたしが教える側、妬まれる側だということも少なくありません
だけどそれが100点になることは永遠にない。
これは私の根本に完璧主義が根付いているというのも大きな要因ですが、それよりも大きな要因は「自分 だけ は特別」だと思っていたことだと思います。
自分は特別。だから何でもできる。
出来ない自分は特別で無くなってしまう。
ならば「出来ない」のではなく「やらない」を選択する。
やらなければ出来ないことは分かりませんしバレません。私は何でもそつなくこなせる私のままでいることが出来る。
こういう生き方をしてきたことを時々良かったなぁと思うこともありますが、圧倒的にやらなければ良かったと思うことの方が多い日々です。
わたしは、「やったものは勝つ」というワードをここ5年くらい痛感しています。
(言い方は悪いですが)どんなに下手でも拙くても、やっている人間っていうのは好印象で人から認められることが多いと思うのですが、このブログを読んだ方はどう思うのでしょうか。
(この話は少し前にTwitterでもしておりました)
やらなかったものが負ける、という意味ではないことも補足しておきます。やらなかったことが正解になることもあると思うので。
自分の中に熱意があるのにそれを何らかの理由で蔑ろにしてしまうことは、もはや自分を殺しているのと同じ事だと思うのです。
やらないことを選択し続け、逃げることをだけを選択し続けたとしたら、その人の心は恐らく死んでいく。(経験談)
逃げることは楽ですが、逃げるだけでは終わらないこともある。立ちはだかる壁にぶつかる必要はなくても、回避したり調べることで前に進む道はあるかもしれない。
だけど「調べても回避しても分からなかったら?」が勝ってしまうと、その手足と頭は回転を止めます。
自分がやりたいことを、言いたいことを、押し込める理由は何でしょうか。
私の場合はプライドでしたが。
今でもそのプライドはあります。私は特別でいたい。だけど、それと同時に誰もがそう思っているという可能性を知りましたし、実際問題「人類皆特別」なのです。
特別でありたいのなら、特別であることに固執してしまわない。
皮肉だと思いますが「私の結論」はこれでした。
今も、よく嫉妬をします。
他人の才能に触れると、私の心はひどく掻き乱されます。それが自分がやっていたことやっていることやりたいことなら尚更。
私の原動力は負のエネルギーです。嫉妬。
それでいい。そんなもんで動けるならいくらでも嫉妬しましょう。
妬ましい気持ちも、羨ましい気持ちも、決して悪ではないと分かるまでに時間は掛かりましたが、結果なんとかまとまっているのが今の自分だと時々思います
今日も明日も、きっと貴方が
ちやほやされていることに
仕事をしっかりこなしていることに
何不自由ない暮らしをしていることに
才能や努力を実らせていることに
綺麗な服をまとっていることに
整ったスタイルと顔立ちでいられることに
笑顔でいることに
私は変わらず嫉妬しているのでしょう。
そういう私です。
泡のように沸き立つのかもしれない
bubble 意味
と調べるまでもなく、バブルと聞けば大概の人は泡の事を思い浮かべるだろう。もしかすると華やかなバブル経済バブル時代を連想する人もいるかもしれない。
泡は弾けて消えてしまう。それはシャボン玉でも経済でも同じ事だというのは悲しくも皮肉なものだなぁ、と今書きながら考えていた。
はじめまして。まきゅという名前でTwitterをしております
普段は仕事めんどくせぇとか、意味深なようですっからかんの事を呟きたいように呟いております。
メインで使っているアカウントは別にあるのでいわゆるサブ垢的なものではありますが、本垢とは「全く別人のつもり」でTwitterをしております。
本業は現時点では店舗での販売員、ですが年内には辞めてフリーターか何かにでもなってると思います。
(その話はまた気が向いた時にでも)
この度、「まきゅ」としてブログを作りました。
別に特別書きたい事があるとか、発信がしたいという事ではない(多少はそんな事も思ってはいる)んですが
ただTwitterだけでは 現状の自分の思い がとても流れて行きやすく、心や目に留めて置きたい事を忘れてしまいがちなのでブログに書こうと思い立ちました。
昔から私は、Twitterの魅力は流動的で変化に寛容なことだと思っています。
流れやすいからこそバズるなんて現象が生まれる訳ですし、そこから生み出されるエネルギーはかなりの熱量だと思います。
だけど、あの時の自分がこう考えていた、こう思っていた を的確に残すのはかなり難しい。
(いいねとかモーメントとかブックマークという手もありますがあまり得意ではない)
ここに書いていく言葉や思いは、その日の私が強く感じたことです。
泡のように突然沸き立つもの。
そして泡のように、恐らく気付かぬうちに弾けて無くなってしまうもの。
そんな自分をここに残す、なんて馬鹿げたことをしたいなぁと思ってしまったわけです。
バブル、というタイトルも、少し悩んで着けました。
始めはひとりごととか紐解き、噛み砕くなど「理解する」ワードを選んでいたのですがどうもしっくり来ず、片仮名平仮名でもダメなのでどうしようかと悩んでました。
何故かこれも「沸き立つように」ふっと浮かんだのが泡沫、というワードでした。儚く消えやすいものとかそういう意味だったと思います
漢字だと硬く、平仮名だと柔らかい。何かズレる。
そこで割と自意識過剰で良い感じに見せたがりの私は英語を選択したわけです(かっこつけた)
私が今、ブログをしたい!という思いも、もしかすると泡沫のものなのかもしれない(実際私は三日坊主が得意です)。だとしたら、それが形に残る。それで良いかな、と。
書きたいことを書いて、言いたいことを言う。
ここが私の自分語りの場であることは変わりありませんし、私は自分語りが大好きです。承認欲求お化けを自称しております。
そんなシャボン玉よりもふわふわとした感じでブログをやっていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。
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